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ルアンパバーン

2009年10月29日 16:27

どーも、最低の悲しさを乗り越えたWAKUです。


前回のつづき。

ビエンチャンからルアンパバーンに行くバスの中、モンゴル人っぽい日本人に声をかけられる。

フリージャーナリストのDさん。

彼もNGO団体などを回って環境について取材しているみたいで、話が盛り上がった。

そのDさんから携帯電話を約500円でゆずってもらった。


ルアンパバーンで2泊して、今回の見学現場であるシェンクワン県のポンサワンに向かう。

いろは坂みたいな道のりを8時間揺られ、ポンサワン到着。


第一印象は「さむい」。

八ヶ岳に似た気候で、無性にソフトクリームが食べたくなるようなところだ。

そして、いたるところに爆弾の殻が飾ってある。

ゆずってもらった携帯電話を使って、早速NGO団体JMASに連絡。

その翌日に現場にいくことになった。



翌日の朝、迷いながらも事務所に到着。

不発弾について簡単な説明を受けて、いざ不発弾処理の現場へ。

ポンサワンから車で約1時間。


「着いたよ」と言われたところは穏やかな平原。

馬とか牛とかが放し飼いされてて、爆弾とは無縁な地に見えた。

その現場の責任者から注意事項を聞いて、爆弾が埋まってるポイントまで歩く。

「確認済みだから大丈夫だよ。」と言われても、やっぱり怖い。

前の人の足跡をたどる。


「ここです。」と言われたところは、普通の野原。

でも、所々にピンク色のサンドバッグが置いてあって、その下に確認した不発弾が埋まっていた。

テニスボールみたいなの鉄のかたまりだった。


通称 ボンビー という小型爆弾。

クラスター爆弾の中に入っていて、空中で散る。

決まった回転数まで回転したら自動的に爆発するシステムらしい。


被害者のうち、28%はこども。

ボールだと思って手に取って、転がしたり、遊んだりして死傷する話を聞いた。

想像するだけで、恐ろしい爆弾だ。


何個か見せてもらって、爆破処理をするために離れる。

しばらく待ってると、「処理したい?」と言われ、起爆装置のスイッチを渡される。

「普通はやっちゃいけないんだけど、特別に。」

ということで、爆破処理することに。


「1、2、3!!…ポチッ。」

スイッチを押した瞬間、爆発の映像が目に飛び込んでくる。

テレビで特撮を見てる感じだ。

そして、1テンポ遅れてドォォォーーーーォーーォォーーーーォーーン!!!!!!!!という爆音。

近距離で花火を見た感じだ。

ちょっとの間、放心状態だった。


スイッチを返すと、みんなから拍手を送られた。


百聞は一見にしかず。

そして、

百見は一験にしかず。



そしてお昼ご飯。

日本人隊員のYさん、Sさん、Kさんから話を伺う。

3人とも元自衛官で兵器についてメチャメチャ詳しい。

特にSさんは世界トップレベルの不発弾処理技術を持っていて、この道50年の大ベテラン。

わずかなミスが死を意味するこの仕事で、50年間処理してきたSさんはホントに大物だ。



午後は他の現場へ向かう。

着いたのは確認済みの雑木林。


道路から1mの脇に2つのボンビーが埋まっていた。

写真を撮ってるとSさんに呼ばれて、そちらに向かう。

足元を指差すから覗いてみたら、未確認のボンビー1つ。

そこの現場責任者は苦笑い。

ふと自分の足元を確認するぐらい焦った。

マジで怖い。

足早に、そして慎重に雑木林を出る。

そして爆破処理。


処理したあとはどうなってるのか気になり、また恐怖の雑木林に入る。

直径50cm・地底30cm位、地面がえぐられていた。

えぐれた穴を触るとまだ温かく、ボンビーの破片も拾った。

2cm×2cm位の破片でも、簡単に人の腕を切り飛ばすらしい。

子供がこのボンビーで遊んでる風景をイメージしたら寒くなった。


車に戻って余韻に浸っていると、ラオス女性デマイナー(爆破処理班研修員)が「お疲れ♪」とバナナを持ってきてくれた。

笑顔が素敵な人だった。

あとあとSさんと話して知ったのだが、

そのラオス女性デマイナーは数ヶ月前にボンビーで夫を亡くしたという。

そして他の人に同じような経験をして欲しくないということで、

危険にもかかわらずデマイナーに志願したらしい。

それを聞いた俺は胸が熱くなった。


事務所に戻って、少し講義を受けて、爆破処理見学・特別実習が終了。

ゲストハウスに戻って、膨大な情報と複雑な感情を整理した。



翌日、散歩してると爆弾の展示会を見つけ中に入る。

お客さんは俺ひとり。

静かに回ってると、スタッフに声をかけられる。

独学で英語を勉強しているBさん。

爆弾の被害者で、左腕がない。

Bさんから左腕をなくしたときの話を聞くことができた。

「1997年、実家の畑を鍬で耕してたんだ。そして、ふと気づいたら病院にいた。そのときには左腕がなくなってた。3日間、意識を失ってたらしい。後になって聞いた話だと、鍬で埋まってたボンビーを突っついて爆発した。父はすぐに僕を県立病院に連れて行った。(約1時間)そしてそこから国立病院に移された。(約12時間)そこで2ヶ月も入院した。体にめり込んだ破片は今でも痛む。」

それからBさんは障害者となり、今は仕事があるからラッキーだという。

彼とは5時間近くおしゃべりしたからかなり仲良くなり、

「来週、僕の村に来るかい?」と誘われた。

願ってもないチャンスだったが、諸理由があって諦めざる得なかった。

もったいない。

Bさんとは再会の約束をして翌日、ルアンパバーンに戻る。


そして今は何もないルアンパバーンで日本語教師をしながらのんびりしてます。

来週、中国入国予定です。



あと、お知らせです。




カメラを滝つぼに落としました。

水深3mの濁流の中に。











すべて水に流れました。


防水カメラだったから余計に悔しい。



p.s.「物より思い出」って開き直ってるけど、励ましのコメントまってます。


小暮 和久  2009.10.29 luang prabang
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ビエンチャン

2009年10月23日 22:04

どーも、インドネシアから金銭的援助を迫られて困ってるWAKUです。


10月13日にラオス入り。

ベトナムのハノイからラオスのビエンチャンまでバスで21時間。

途中で鼻空想砲(ノーズ ファンシー キャノン)並の爆発音が聞こえ、テロか!?

と思いきや、ただのパンク。

IMGP2582_convert_20091023212918.jpg↑パンクの修理中。

バスの中で韓国人家族と仲良くなるが、ビエンチャンでお別れ。

やさしい家族だった。


ビエンチャンではドミトリーに泊まったにも関わらず、俺1人。

嬉しいようで、寂しいようで。


翌日、中国大使館に1ヶ月ビザの申請。


その途中で義足のポスターが目に入った。

そしてラオスでのテーマが決まった。


【地雷について考えよう】


ということで、3つのNGO団体を訪ねた。


1つ目は「Japan Mine Action Service(JMAS)」。

代表のTさんからお話を伺う。

Mineは地雷を意味するけど、JMASは主に不発弾の処理をしているとのこと。

クラスター爆弾の話や、犠牲者の話など色んな話をした。

Tさんの自論だと、不発弾を全部処理するのに1000年以上かかるという。

見学の許可が下りて、その翌週末に地雷原を訪問することに。


ちなみに先ほど、命がけの地雷原見学しました。

詳しくは次回の日記に書きます。



2つ目は「Association for Aid and Relief(AAR)」。

車椅子を作ってる日系NGO団体。

アポなし体当たり訪問に応じて頂いた代表のOさんに感謝。

工場現場を案内して頂いたり、実際に何種類もの車椅子に乗らせてもらった。

IMGP2595_convert_20091023213502.jpg↑工場現場に置かれた様々な車椅子。

そしてOさんに車椅子バスケを見ていかないか?と誘われる。

同じ敷地内に体育館があるらしく、Oさんの仕事が終わってからついて行くことに。



Oさんを待ってる間にAARの隣にある3つ目のNGO団体を訪ねた。

「Cooperative Orthotic and Prosthetic Enterprise (COPE) 」。

イギリス系NGO団体で、主に義足や義手を作っている。

俺が見たポスターはCOPEのポスターだった。

こっちもアポなしでドアを開いたら、展示会みたいになっていた。

IMGP2610_convert_20091023214155.jpg
↑爆弾をつないで作った「逃げ惑う母と子」。


IMGP2605_convert_20091023214015.jpg
↑クラスター爆弾の中に入っている165個くらいのボンビー(小型爆弾)。


IMGP2602_convert_20091023213704.jpg↑順番待ちしている義足たち。


IMGP2603_convert_20091023213814.jpg↑バギーの手。


COPEでみんなにお土産を1冊買ったから楽しみにしててね。



そしてユニホーム姿でやる気満々のOさんと合流。

体育館では数人のラオス人が車椅子でバスケの練習をしていた。

他のNGOで働いてる日本人2人も来た。

しばらく見学していると、ミニゲームに誘われた。

リアルだった。

人生初の車椅子バスケ。


ということで、

日本vsラオスの車椅子バスケ国際親善マッチ。

10分の予定が気づいたら30分もバスケしてた。

終わったころには腕が上がらないほど、パンパンに張ってた。

体力の限界というものを越していた。

IMGP2612_convert_20091023214307.jpg↑国際親善マッチ後の体育館。



というのも実はその午前中、

ラオスのパーミットを伸ばしたかったから、

タイを出国して、黄猿に負けないスピードでラオスに再入国。

炎天下の中、往復50km。

チャリで。

IMGP2582_convert_20091024212918.jpg↑左はラオス、右はタイ、真ん中はメコン川。

ちなみにチャリで国境超えしたのは俺しかいなかった。



話を戻す。

その夜は日本人みんなで晩御飯。

かなり疲れてたのか、大嫌いなビールがよく飲めた。

ヒグマが来てもビールは渡さなかっただろう。

そして興味深い話も聞けた。

GHP、GDPの話から、

『幸せとはなにか?豊かさとはなにか?』



食事代はすべてご馳走になり、ゲストハウスに戻る。

翌日、筋肉痛を我慢してルアンプラバン行きのバスに乗り込む。

揺れるバスの中、2席独占して眠りについた。


つづく。


p.s.携帯電話を買いました。国を超える度に番号が替わります。


小暮 和久  2009,10,23 phonsavan


ただいま、この辺にいます!!
kakuuto

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